大学生は勉強しない、それとも大学生に勉強させたがらないのか?

日本が活力を取り戻すために、経済の再生も大切。焦点になったエネルギー、雇用、社会保障の整備の問題も大切、しかし今日はあえて教育と言いたい。大学時代から漠然と感じていたこと、日本の学生の勉強しない具合を見て、これじゃ日本再生なんて話どころではないと思った次第です。首相、もっと教育をなんとかしたほうがよいと言いたい。学生も真剣に勉強せず、そしてシステムもそれを許容しているように思いますが、気のせいでしょうか?
 
まず学生の勉強する姿勢について。私が大学生の時の話。単位のためといやいや授業に出ている人も結構いました。私の大学では、裏シラバスなるものがあって、単位がとりやすい科目はA+、難しい科目はC+などとランキングなどあり、それを目安に授業を登録する人たちもしばしば。授業の出欠席も友人にお願いして、教授が名前を呼んだら代わりに返事をするか、もしくは出席カードの代筆。潔く欠席したらいいのにと思いました。

試験近くになると、友人からノートを借りてコピーして、勉強。ノートの持ち込みが可能な場合は、勉強などせず他人のノートで試験を受けています。大学時代、試験前になると友人でもなんでもない赤の他人が私のノートのコピーを持っていたことに驚かされました。人のノートで勉強になるのか。

近頃は、資格試験の学校とのダブルスクールという人も少なくないと思いますが、私の大学時代も資格試験に打ち込む学生たちの姿を観ました。それでも大学の授業を適当に受けていい理由にもならない気がします。

海外と比較するのはフェアではありませんが、ここオランダの学生は試験前は本当に必死です。そもそも教育のシステムが違うわけですが・・・そして、大学の図書館もそれに対応すべく試験期間中は夜中の12時まで開放したりしているのもざらです。

教授は厳しく、容赦なく学生を落とします。厳しいだけではなく、チャンスも与えるのですが、その間に頑張らず落ちる学生は容赦なく落とします。チャンスというのは、再試験、再提出、教授とのコミュニケーションを通じで今後を考えることなど。日本もこれぐらいやってもよいと思います。また、学生たちも勉強しているため、自分の意見をはっきり述べること、理論的に説明でき、理論とした学んだことがしっかり頭に入っています。
予習→授業→ディスカッション→頭に定着という形があるように感じられます。

勿論学生だけの問題ではなく、先生方の授業の進め方も工夫と進化が必要に思います。試験のパターンだけではなく毎年の試験の出題が全く同じな教授も私が在学中にはいて、試験期間前になると学科ごとの対策本まで出ていました。

私の出た海外の大学院では、授業が終わったら生徒も先生を評価します。授業のコンテンツ、進め方、質問にどれだけこたえてくれたのか等。そして、生徒から評価が低かったら、次年度は呼ばれないということもあります。単純に人気投票というよりは、本当に理解したいと思う生徒の姿勢に応えられる授業であるか否かが問われていたと、その評価のある種の公平性は担保されていたと思います。

また、社会の仕組みも大学生を勉強させないのに一役買っているように思います。大学で明らかに授業がある時間に、会社の企業説明会や入社試験が実施されるといいます。大学での勉強なんて何の役にも立たないと言わんばかり。日本の雇用のスタイルが教育のシステムに大きな影響を与えています。

日本はものつくりで国を盛りたててきたわけですが、日本が技術力で勝ってもiPadのようなものは創れなかった、電子本の末端をつくったが版図を広げられず現在はKindleの天下。結局広い視野と総合力ではどうしてもそれらの製品にかなわなかったわけです。総合力を養う教育、その機会は今の教育のシステムと学校教育からでは生まれずらいように思います。

2012年、東大はギャップイヤーを導入すると発表しました。ギャップイヤーは英国の大学制度の一つで高校卒業から大学への入学、あるいは大学卒業から大学院への進学までの期間のこと。その間に大学では得られない経験をすることが推奨されています。一年のうちにボランティアに精を出すのもよし、語学留学するもよし、バイトしてもいいわけです。

駆け足で過ごした約18年の人生を振り返り、また経験を通じて今後の道のりをきめる準備期間となります。海外ボランティアのお世話を仕事の関係で何度かしましたが、海外に出た学生がすべからく言うことは、「もっと勉強しなくては!」という一言に尽きます。海外の学生たちの必死さに刺激を受けるようです。日本では、大学を入学確定して半年、一年の休学届の申請も可能なようです。現在の日本の制度ですとギャップイヤーの一年は空白の一年として、就職活動などに不利になるかも知れないと言われていますが、今後ゆっくりと変わっていくように思います。

教育が変わることを望むには、おそらく今の雇用の慣習を変えることから始めないといけないのではないでしょうか。

 

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