[ハーグ観光]ハーグってどんな所?ハーグ歴史博物館(Haags Historisch Museum) で街を俯瞰する

オランダの行政の中心地域ビネンホフ*の横、そして真珠の耳飾りの少女で知られるマウリッツハイス王立美術館のすぐ近く、ハーグの歴史的な建物が並ぶ一角に、ハーグ歴史博物館(Haags Historisch Museum)があります。

ハーグ歴史博物館はその名の通り、ハーグ地域の歴史、王室、ハーグの人々昔~今の暮らしに焦点を当てております。ハーグ住民であれば、ハーグの成り立ちを知るために、観光客であれば行政の中心となっているこの国の歴史の一端を知ることができます。

ビネンホフ:13世紀に建造されたフロリス伯爵宮殿があり、国会議事堂、他に総理府や外務省などの政府機関がある地域。
ハーグ歴史博物館(Haags Historisch Museum)入り口
ハーグ歴史博物館(Haags Historisch Museum)の入り口

ハーグを俯瞰する

博物館入り口右手の展示室では、ハーグの街の成り立ち、地理的な概観をつかむ展示が見られます。いくつか、街を描いた絵画が掛けられており、今も街に存在する建物を絵から探し出すことができます。ビネンホフはもちろんのこと、聖ヤコブ教会(Grote of Sint-Jacobskerk)、などは大変古い建物も絵に見られます。

ハーグ歴史博物館(Haags Historisch Museum)内部1
ハーグ歴史博物館、1階の展示の様子


ハーグ歴史博物館(Haags Historisch Museum)ホフ池
The Hofvijver seen from the Doelenterrein(1567年)
ビネンホフ前の四角いホフ池はこのころからすでにあったことを改めて知ります。

聖ヤコブ教会は、ハーグで最も古い建物の一つ。13世紀にはすでに木製の教会が建造され、14世紀に現在に残る石造りの教会が建てられました。約90メートルある教会の塔は、当時のハーグで最も高い建物であったに違いありません。16世紀の宗教改革によって、カトリックの教会はプロテスタントに代られ、カトリックで貴重とされた品々は破壊されるか、紛失したのだとか。


先史時代の様子
また、展示室壁には映像が映し出され、紀元前から現代にかけてのハーグの地形、人口の変遷が写し出されます。非常に興味深かったのは、6000年前は現在ハーグの中心地となっている一帯は海で紀元前3400年前の海岸線はLeidschendamというハーグの中心から更に内陸に数キロ下がった地域にあったこと。しかし、紀元前2000年では、現在の海岸があるスケフニゲンよりも少々先にあり、その後紀元前1000年ごろにマース川からの流れが地形を変えます。紀元後になり海岸線から近いOckenburghと呼ばれる場所に人が生活し始めます。

中世

ようやく1300年ごろになり、現在のハーグの中心地に住居が建ち始めます。その当時の人口は1,200人ほど。1350年にビネンホフ前に広がるホフ池(Hofvijver)が作られ、その池に沿って走るホーへ・ニュー通り(Hoge Nieuwstraat)も1374年ごろ作られます。改めて、ビネンホフのある一体が早い時期に作られたこと、そしてロッテルダムやデルフトにつながるカナルができ始めました。

スペインとの80年戦争時、ハーグの守りは弱かったと言われますが、戦争中に徐々に守りを固め7000人(1560年)だった人口も15,000人(1620年)とぐっと増えます。1670年にハウステンボス宮殿(huis den bosch)が建てられます。ちなみに長崎のハウステンボスの同宮殿は採寸が全く同じく作られました。

近代
アムステルダムからデンハーグHS間の蒸気機関車は1843年には開通。それから数年後の1847年にはロッテルダムにまで延長されました。また、中近代でカナル(用水路)が掘られ、それらが堆積した砂を海岸線まで運び出し、主要都市をつなげ、時に排水を海に運ぶ役割をしていました。しかし20世紀初頭にはそれら街の中心にあるカナルは埋め立てらます。

現代
19世紀終わりから20世紀にかけて、人口は急速に増加し、47万人(1933年)に達します。1909年に27万人であったので、大きな増加です。第二次世界大戦中は、ドイツ軍の進駐がありました。

ドイツ軍は、オランダを英国との戦争で緩衝地帯としたため、対戦車のための溝が海岸沿いに5.5キロほど掘られ、また海岸地域に住む住人は強制退去させられました。平和宮からV2ロケットもロンドンに向けて飛ばされました。これに応じた連合国軍は、V2ロケットが飛ばされた地域を爆撃し、多くのオランダ市民が犠牲になりました。

ハーグ歴史博物館(Haags Historisch Museum)
現代のハーグ市の広がり
赤いマークが住宅のある地域

ドイツ軍侵攻、ハーグ地域での様子

歩みを進めていくと、突然部屋の展示は第二次世界大戦時のものに。1940年オランダは、ドイツ軍のロッテルダム爆撃後に降伏、それ以降オランダは1945年5月5日までドイツ軍の占領下となります。

ハーグ歴史博物館(Haags Historisch Museum)展示物、ドイツの占領
ハーグ歴史博物館展示物 (c) Haags Historisch Museum

ドイツの占領は正式には1940年5月17日に始まり、アルトゥル・ザイス=インクヴァルトは国家弁務官として派遣され、過酷な収奪とレジスタンスやユダヤ人に対する弾圧を行いました。

ユダヤ人迫害

当時オランダで暮らしていたユダヤ人は14万人、そのうち11万以上がオランダ国外の絶滅収容所や強制収容所へと移送されました。『アンネの日記』のアンネ・フランクもオランダから(ヴェステルボルク通過収容所を経て)移送されたうちの一人です。ハーグでは11,000人のユダヤ人が捕まり、500人のみが生き延びました。
ドイツ軍のオランダの侵攻により、オランダに生活するユダヤ人の自由がだんだん失われていきます。1941年1月には、映画館への出入りを禁止、同年5月末から公園、プールの利用も禁止。1942年には、黄色いバッジの着用が義務付けられました。

一般市民の暮らし
戦争中、オランダ人はこれまでの生活を続けていましたが、市民はドイツ軍の占領に対して、レジスタンスの活動も活発化します。生活必需品は不足し、パン、バター、肉など配給制となりました。展示室には、その当時のチケットも展示されています。

ハーグ歴史博物館(Haags Historisch Museum)展示物、ドイツの占領時の配給チケット
展示されている配給チケット

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