[書籍] アンネの日記 ー世界記憶『アンネの日記』とその背景 (1)

わたしの望みは、死んでからもなお生き続けること。 1944年4月5日 アンネ・フランク

アンネ・フランクは1945年3月に解放寸前のベルゲン=ベルゼン収容所(ドイツ国内)でチフスに罹患し16歳でその短い生涯を閉じました。

アンネは亡くなり、日記は戦争を生き延びました。アンネの父オットー・フランクがフランク家の潜伏生活を助けたミープ・ヒースが保存していた原稿を受け取り、私家版としてドイツ語でまとめたのが最初の翻訳。1947年にオランダ語で出版、それからフランス語、英語(1951年)にと様々な言語に翻訳され、世界のベストセラ―となりました。アンネの願いどおり、日記、そしてそこに綴られた彼女の想いは死んでからもなお生き続けました。

なぜ、一人の少女の日記が多くの人に読まれることいなったのか。そして多くの人の心を惹きつけたのか、彼女の人生と内面を改めて当時の背景と日記と共に追いたいと思います。


アンネの日記オランダ語版
オランダ語版アンネの日記「Het Achterhuis」
これをオランダ語で読めるように、オランダ語の勉強を頑張らなくてはと思う今日この頃・・・
(オランダ語学習は数カ月のお休み中・・・)

13歳の誕生日のギフト

1942年6月12日は、アンネの13歳の誕生日。オランダはもうすでに2年間もドイツ軍に占領され、ユダヤ人は普段通りに生活することが難しくなっていましたが、この日は特別でした。この日、アンネは誕生日のギフトとして、本、パズル、ブローチ、お菓子などをもらいました。両親からの贈り物は、赤と白のチェックの日記帳でした。アンネはこの日記帳をキティと名付け、日記帳にこう記します。

あなたになら、これまで誰にも話せなかったこと、どんなことでも打ち明けられるでしょうね。私の大きなささえになってくださいね。
1942年6月12日 アンネ・フランク
この2日後6月14日からアンネは日記をつけはじめます。この日から一カ月を待たず、彼女の生活が一変することなどは知る由もありませんでした。

アンネの日記ーキティ
アンネの日記ーキティ

フランクフルトからアムステルダムへ

1929年6月12日、アンネ・フランクは、父のオットーとエーディットの家庭の次女としてドイツのフランクフルトで生を受けました。長女のマルゴーとは3つ違いです。アンネが生まれたのは夫婦が結婚5年目のことでした。

しばらくはドイツ国内で生活していましたが、ヒトラーが政権を握った1933年にオランダとの国境近くのアーヘンに移り、そしてアムステルダムに移住しました。それに先だって、父のオットーフランクは、1933年アムステルダムにペクチンを作る会社オペクタ工業を興し、家族が移住できる家を探しました。この会社の設立時に後の潜伏生活の協力者ミ―プと出会います。

ミ―プは、オーストリア(ドイツに併合された)出身の女性で、オランダ人のヤンと結婚することでオランダ籍となりました。フランク一家とすぐに親しくなり、家族ぐるみの付き合いがはじまりました。

ドイツで何が起こっていたのか?

フランク一家がドイツから退去した時期は他の多くのユダヤ人もドイツを去りました。1933年1月ナチスが政権を握ると、反ユダヤ的宣伝、不当な逮捕などが始まりました。後に、3月には独裁ユダヤ人の生活を制限する法律を次々と作りました。全国的なユダヤ系の商店、商品、開業医、弁護士などのボイコット、公務員の職から追放、アカデミックの世界でもユダヤ系の締め出し、公民権のはく奪、焚書なども行われました。

ユダヤ人のドイツ脱出は、日を追って難しくなっていきました。脱出にはお金がかかり、また近隣国は移民法を作り、また強化し避難民を入れない国もありました。

フランク一家は他の避難してきたユダヤ人たちと同じく、アムステルダムでつかの間の(限られた)平和を享受しました。しかし、戦争の足跡は確実にフランク一家に迫っていました。

1938年のエビアン会議ー周辺国から見放されるユダヤ人
1938年の夏、32か国の代表がフランスの避暑地エビアンに集まり、ドイツ系ユダヤ人難民について話し合いが行われました。9日間の会議、代表者は難民に同情するものの、米国と英国を含む大半の国は難民の受け入れを増やさないことの言い訳に終始しました。この時に諸国がユダヤ人を受け入れていたら、もっと多くのユダヤ人の命が助かっていたかもしれません。

1938年11月の水晶の夜ーますます追い込まれるユダヤ人
1938年11月9日から10日の夜にかけて、ドイツ国内の数百のシナゴーグに対する襲撃、破壊、略奪が行われました。建物には火が放たれ、ガラスは粉々に砕かれ、3万人のユダヤ人男性が強制収容所に送られ、ユダヤ人が所有する店舗は、ユダヤ人以外の人が経営しない限り再開することはできなくなり実質廃業。多くのユダヤ人が職を失います。

オランダの占領とユダヤ人の迫害

1940年5月14日、ドイツ軍はロッテルダムを空爆、多くの死者を出したオランダは降伏。そこから、ドイツ軍により占領されます。オランダ王室はイギリスに亡命政府を創りました。ここでもドイツと同じようにユダヤ人の公職からの追放、登録、証明書にはJew(ユダヤ人)を示す”J”の印が記されました。ユダヤの星を服につけ、持っている自転車はドイツ軍に没収、公共の交通機関の利用は禁止、買い物ができる時間も決められ、夜間から早朝の外出(20:00-翌朝6:00)までは、禁止となりました。

1942年6月29日、ドイツ占領軍はユダヤ人をドイツ国内の強制収容所に移動させることを発表。オランダ国内のユダヤ人1000人が最初となる呼び出し状を受け取りました。アンネの姉、マルゴーもその最初の1000人の一人でした。

潜伏生活

1942年7月6日、一家の隠れ家となるオットーの会社オペクタの事務所のある建物の『後ろの家』に移動します。(オランダ語でHet Achterhuis『後ろの家』は、オランダ語版アンネの日記のタイトルです。)本当は7月16日に予定していた潜伏はマルゴーへの呼び出し状によって10日早まりました。

私たち4人とも、まるで冷蔵庫の中で夜明かしでもするように何枚も重ね着をしました。できるだけたくさんの衣類を持っていくためです。ユダヤ人でなかったらこんな時、トランクに衣類をいっぱいつめて、家から出ていくはずなのに。1942年7月8日 アンネ・フランク
着こめるだけ着こみ、朝食の後もそのまま、ベッドもそのまま、散らかったままの家を後をしました。どう見ても一家があわてて立ち去った様子です。通学かばんや買い物かごなどはちきれそうなカバンをもって隠れ家へ向かいました。家族は家を離れるとき、スイスの親族の家に逃げるとほのめかし、そのように工作しました。

多くのユダヤ人が地下へもぐりましたが、戦争の始まったばかりの時期は彼らを助ける組織はありませんでした。また、ユダヤ人を助ける非ユダヤ人もいませんでした。子どもだけでもと、見ず知らずの人を預けた両親もいました。多くの場合、子どもたちは農家に預けられました。こうした子どもたちは二度と親の顔を見ることがなかったといいます。子どもの隠れ場所を見つけるのは、大人の場合と比べて易しかったと言われています。なので、家族がそろって潜行するケースはまれでした。

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