[ハーグ観光] 監獄博物館(Museum de Gevangenpoortl)(1) - 社会の逸脱をコントロールする

ハーグに中・近代の牢獄、拷問器具が展示されている博物館、監獄博物館(Museum de Gevangenpoortl)があります。オランダの行政の中心地ビネンホフの向かい側にあるこの博物館は、1428年から1828年までの約400年、判決が下される罪人を一時的に収監した場所であり、また容疑者の罪の自白のため、拷問を行い、判決を下す裁判所としての機能を有していました。

この博物館を通じて、どのように社会は「逸脱」をコントロールし、権力者は権力を手中に入れたのかを見ることができるのはないでしょうか。権力の技術としての法律、拷問、投獄。それらが恒常的に従順な身体を生み出す方法となりえたのか。

監獄博物館(Museum de Gevangenpoortl)の外観
オランダ、ハーグの監獄博物館(Museum de Gevangenpoortl)の外観
ホフ池を臨む場所に建っています

監獄や拷問の役割

古今東西、拷問や監獄は社会の「逸脱」をコントロールするために用いられてきました。逸脱を社会学的にいうのであれば、社会が「正常」とすることから外れること。例えば、著者がフィリピンの田舎でミニスカートを履いて出かけた場合はどうなるのか?田舎はまだ保守的でミニを履くのは論外となります。これも逸脱の一つの例。あるいは、ドゥテルテ大統領が今「麻薬戦争」を行って久しいですが、多くの社会において麻薬の使用は逸脱です。

逸脱のコントロール機能として、「制裁」が行われます。それには私的な制裁と公式的あるいは制度に組み込まれた制裁があります。前者のミニスカートの例では、著者は罰金を払うことはありませんし、それによって矯正のための拷問を受けたりはしません。しかし、近所のゴシップの対象になり、著者のコミュニティにおける評価は下がります。一方、麻薬の使用や販売は刑事罰の対象となるため、捕まり、施設に送られるあるいは、刑に服します。
「盲目の法執行」
法の象徴である天秤。
しかしそれを持つ女神は目隠しをしています。


監獄で扱われたケース

監獄で扱われたケース軽犯罪である窃盗、酩酊、喧嘩、姦通、賭博などから、殺人、暗殺の企てなどです。軽犯罪は収監後間もなく判決が下されますが、複雑なケースは取り調べに一カ月間収監されるものもいました。判決後の刑罰は、罰金、公開の場での辱め、追放刑、体刑、死刑がありました。

刑罰の多くがプラーツ広場にある「緑の草むら」と呼ばれる場所で執行されました。公の場での見せしめ的に行われる刑罰はまた権力者たちの権力誇示の場所でもありました。犯罪者は、さらし台でさらされ通行人は、犬の汚物、つばを吐きかけ、中には排尿するものまでいたと言います。

見せしめ的に罰を与えられ、処刑され、それを見ながら市民は「こうなりたくない・・・」と強く思ったことでしょう。また恐怖で、人々を支配することに成功した権力者は、市民にその刑罰の一部に加担させ、その一部を担わせました。最悪な統治ですが、人々は参加しました。



コルネリス・デ・ウィット(Cornelis de Witt)のケース
南ホラント州プッテンの知事、ドルドレヒトの市長を務めたコルネリスはウィレム3世の暗殺を企ての嫌疑で1672年に逮捕されました。背景には、英蘭戦争でのオランダ経済の疲弊、フランスがオランダ侵略戦争でオランダのほとんどを占領したことや、オラニエ=ナッサウ家支持者と共和派の対立がありました。

オランダ全盛期とその難しい時期をコルネリスの弟ヨハン・デ・ウィットは優れた政治手腕を発揮しました。「各州が主権を持つ体制」が真の自由とし、オラニエ家を政治の世界から排除することに努めましたが、度重なる国難で国民は弱冠22歳のオラニエ公ウィレム3世を支持。

有力家族でお金持ちなコルネリスはトイレ・バスつきの豪華な独房で2週間収監されました。拷問を用いての尋問がはじまりました。自白を強要するためにあらゆる拷問をうけました。証拠不十分でありながら、有罪判決をうけ全ての役職から解任、ホラント州からの生涯追放処分となりました。

ことはコルネリスの有罪判決で終わりませんでした。激しい拷問のゆえに歩行が困難となったコルネリスを迎えにきた弟ヨハンは、民衆によって「緑の草むら」で虐殺されてしまいます。遺体も手足は切断され、腸は切り取られ、1切れ5セントで販売されました。(Museum de Gevangenpoort 資料)遺体の一部である、舌と指は、ハーグ歴史博物館に展示されています。

博物館を出てヨハン・デ・ウィットの銅像が建つその場所は、実際の処刑場所です。

ヨハン・デ・ウィットの銅像 ハーグ
1918年にヨハン・デ・ウィットの銅像がつくられました
銅像が建っている場所が惨殺された場所というのはなんともです。供養塔のように感じてしまいます
ウィット兄弟は不満を持った民衆の手により葬られましたが、民衆を駆り立てた政治的混乱と背後の権力からの影響があったとも見れます。こうして、オランダ国内の内紛の種が摘み取られ、オランダの国家存亡の危機は乗り切ったと思われましたが、歴史を現在から振り返ると、これを機にオランダが衰退期にはいります。




スポンサーリンク

スポンサーリンク

Subscribe