オランダ解放記念日 (Bevrijdingsdag):戦争の歴史を想う

日本では子どもの日を祝う今日5月5日は、オランダでは解放記念日 (Bevrijdingsdag)で、オランダがナチスドイツから解放された日を祝います。解放記念日は、アムステルダムやハーグなどの主要都市を始め、1945年にドイツ軍が降伏したワーゲニンゲンなどの12州の州都で盛大に行われます。

オランダ国旗の掲揚
民家に掲揚されたオランダ国旗
開放記念日前日から、この光景を近所でみかけます


これらの記念日から、過去の大戦の最中に失われた自由・尊厳そして生命の重さを感じると共に、後に世界的ベストセラーとなったアンネの日記」が残したメッセージがより明確になってきます。

ドイツ政府によるユダヤ人迫害

1938年11月9日から10日の夜にかけて、ドイツ全土でユダヤ人の商店や宗教施設をはかいしました。建物には火が放たれ、ガラスは粉々に砕かれ、3万人のユダヤ人男性が強制収容所に送られたこの日は「水晶の夜」と後に呼ばれます。

この水晶の夜の近因となったのが、ポーランド政府による新しい旅券法の布告とドイツ政府の対応。1938年10月6日、ポーランド政府は新しい旅券法を布告し、それによってドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍が無効とされてしまいました。一方でユダヤ人をポーランドに送り返したいドイツ政府は、ポーランド系ユダヤ人を強制的に追放。しかし、ポーランド国境は封鎖されており、行き場を失った多くのユダヤ人が窮乏しました。

また、事件の数日前にはポーランド系ユダヤ人によるドイツ大使館職員の殺害事件も起こっています。在フランスのドイツ大使館、3等書記官のエルンスト・フォム・ラートが殺害されましたが、皮肉にもこの人物は反ナチスの人物で、彼の暗殺は政権にとっては痛くもかゆくもない出来事。そして、政権はこれを利用して、ユダヤ人迫害を行っていきます。

ドイツ政府によるオランダ占領とユダヤ人迫害

ドイツはオーストリアとチェコの一部を占領(1938年)、ポーランドに侵攻(1939年)、そしてイギリスとフランスに宣戦布告をします。後に、1940年5月10日オランダに侵攻。5月14日にはロッテルダムを空襲し、多くの死者を出しました。

ロッテルダムの空爆で多くの死者を出したオランダは降伏。そこから、ドイツ軍により占領されます。オランダ王室はイギリスに亡命政府を創りました。空爆から数週間で多くのオランダ人はもとの生活に戻り、占領の重圧はそれほど感じなかったと言われています。一方、1940年11月にはオランダに生活するユダヤ人は公職から追放、同年末にはオランダ人は全て登録され、証明書にはJew(ユダヤ人)を示す”J”の印が記されました。

一般のオランダ人は、ユダヤ人にかかわることを恐れました。しかし、占領に不満を持つオランダ人はオランダの亡命政府を支持を表明するなどの抵抗や、レジスタンス運動を地下で組織する人たちも現れました。

ユダヤ人規制法
ユダヤ人の自由を奪う規制法が次々と発布されました。ユダヤの星を服につけ、持っている自転車はドイツ軍に没収、公共の交通機関の利用は禁止、買い物ができる時間も決められ、夜間から早朝の外出(20:00-翌朝6:00)までは、禁止となりました。

ユダヤ人の移送
1942年6月29日に、ドイツの占領軍はユダヤ人をドイツ国内の強制収容所に移動させることを発表しました。これにより、オランダ国内のユダヤ人1,000人が最初となる呼び出し状を受け取りました。アンネの日記のアンネ・フランクの姉、マルゴーもその最初の1,000人の一人でした。

呼び出し状には、汽車の時刻、出発する場所、持ち物のリストなどが記されています。汽車はオランダの北部にある「ヴェステルボルク通過収容所(現在は博物館があります!)」に向かうのですが、それ以降どこに向かうのかは知らされていません。

招集をかけるものの多くのユダヤ人はそれに応じませんでした。そのため、家に踏み込み、ユダヤ人を連行しました。また、ユダヤ人の存在を密告することで懸賞金(ユダヤ人5人を裏切った男が37.50ギルダー、当時の1週間分の賃金と同じ)を受け取ったという記録があります。

ドイツ人のために働くオランダ人たちは、ユダヤ人が連行されたあとにお金そして家具、装飾品などを奪っていきます。これを組織的に行っていたのが「Puls」という会社。そのため、のちにPulsenという動詞(住宅の略奪などの行為を表す)がオランダ語の辞書に加わりました。そうした、ナチスに協力的かつ利益を得ていたオランダ人がいる一方で、レジスタンスは、ナチスに対抗しつつまたユダヤ人たちを助けていました。捕まったオランダ人のレジスタンスたちも強制収容所に送られていました。

オランダ人の困窮

戦争の初期は、多数のオランダ人は他人事を装っていましたが、戦争は徐々に人々の生活を圧迫し、食糧は不足し、配給切符なしでは生活に必要な物資も賄えませんでした。1944年末から1945年にかけて”Hongerwinter”と知られる飢餓では、食糧不足で2万人以上が亡くなりました。

ハーグ歴史博物館に展示される配給券


また、価値あるもの自転車やラジオなどはドイツ軍が没収し、ドイツに送られてしまいました。この時をオランダ人は冗談半分で「ドイツ人は我々の自転車の性能がよいから、全部持って行ってしまった」いいますが、背景を知ると痛烈な皮肉です。

占領軍が許可したことのみが掲載される新聞には、ドイツ軍は連戦連勝、ユダヤ人は価値のないもので、レジスタンスは犯罪人であると書かれます。しかし、非合法の新聞の発行は戦争末期にかけて増えていき、ラジオ・オラニエ(イギリスの亡命政府が流しているオランダ語のラジオ放送)を聞くオランダ人も多かったといわれています。

占領は1945年5月5日、ワーゲニンゲンのHotel De Wereld でドイツ軍が降伏文書がサインをすることで終わります。

*ワーゲニンゲンは映画「遠すぎた橋」の舞台となったアーネムから西へ20キロ弱の場所にある土地。

5月5日の記念日のイベント

前日の5月4日は戦没者記念日の追悼式典が行われます。また開放記念日である今日は朝8時から2分間、電車などの交通機関は止まり、黙とうがささげられます。アムステルダムのダム広場の戦没者記念塔(1956年)の前で式典が厳かに行われ、戦争で亡くなった死者を悼み、過去の教訓に学ぶ日となっています。テレビ番組も、第二次世界大戦の特集が組まれています。また、無料屋外コンサートも行われ、皆でワイワイと自由を祝う日でもあります。

オランダの歴史番組を視聴し、アンネの日記関係の書籍を読む著者。午後はハーグの野外コンサートに出かけようかなぁ、などと思いながら開放記念日を祝福しない今にも降り出しそうな曇り空に出不精になってしまいそうです。

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